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2012年 01月 14日 ( 1 )

恋に落ちるとき



当店、誰とはけっして明かせませんが、
とある女子の、ひとつの恋愛が、
この年末年始に終わりました。
早かった・・・。とても早かった。

「つき合ってみたけど何かが違うような
かんじ
でしっくりこず、すぐに別れてしまった」
という経験をしたことが、誰しもあると思う。

まあ多分そのパターンだったと思うけど、
個人的にとてもうれしかったし応援して
いたので、ちょっと残念である。
(だけど終わる時はだらだらせず、
決断は早いほうがいいと思う。)

このパターンにならない秘訣は、
やっぱりお互いに、
「めっちゃ好きになって惚れて惚れまくって
からつき合う」ことだと思う。

「ちょっといいなあ」とか、「すてきだなあ」
と思っている程度で、
まあつき合ってみようか、というノリで、
いざ交際が始まり、相手を少し知ってみると、
何か違う、ここが嫌いだ、ゆるせない、
と思うことがある。

その逆に、会った瞬間から雷に打たれた
ようになり、その人のことばかり考え続け、
他のことは考えられなくなるのも恋。

私はたまにこの病気になり、
いったい自分がどうしちゃったのか、
あまりのことに自分にお尋ねしたいと
思うときがある。
(親しい友人は「またかい」と取り合って
くれないけど、本人はいちいち苦しんでいる)

しかしこれは相手の問題ではなく、
こっちの問題であることに最近、私は気がついたのだ。

こちらの心を「激しく打つ人」と
「まったく打たない人」がいる。
それは恋の大前提だとしても、
それ以外の理由として、私は
「自分の中に何か足りないものが
あるのではないか」と思っているとき、
激しく恋をするのかもしれない、と思うのだ。

自分が満ち足りていて完璧で完全な
自己愛の中にいるとき、人というのは
他人を求めないのではないか、と。

「すてきな私」「幸福な私」そのアイテムの
ひとつとしての「好きな人」というのは
存在するのかもしれないが、
あの魂を揺さぶられるような激しい思いと
いうのは、そういう自己愛の海の真っ只中に
いるときには味わいにくいと思うのだ。

なぜなら私は人を好きになるとき、必ず
「ああ、私の欠けた部分がそこにある」
と思うから。

私はとてもガサツな人間ではあるけど、
調子の良い時は、「そこがバイタリティーが
あっていい」とか、「ノーブルな下品さ
いうものを追及してみたい」
(ちょっとわけがわかりませんが)
などと思えるのだが、
テンションがダウンしている時は、
そこがかえって嫌でしょうがない。

たとえば小さなことで言うと、
私は荷物を持っていると必ずドアを足で
開けるし、必ず駅前の鳩を脅すし
(酔っぱらってるわけではないのに)、
何でも「どりゃー」という勢いで
生きて行こうとするのである。

しかしこんな女を好きになる人は、
たとえばつけっぱなしの電気を
各部屋消して回ったり、料理を作ってくれて
後片付けまでしてくれたりする人なのだ。

家中の電気をつねに煌々と照らし
ていたい
私は、(暗いのがこの上なくいや)
こういうところに自分に無いものを見るのである。
料理も苦手だし。

私は道端でぶつかられたりすると、
「痛いのう、われー」
と心の中で思う。
さすがに声を出すのは「痛っ」くらいだが、
「すぐに謝れ。謝らんと後ろから
蹴り倒すぞー」と内心、思う。
それなのに私は大きい声を出す人が
嫌いなのである。
多分、私はガサツな自分に無いものを
相手に求めるのだろう。

相手は相手で、私を見ていて
「人生はこのくらいの勢いを持って
生きなくては」くらいのことを思ったのかもしれない。
(きいたことはないけど。)

人というのは意見や趣味は合わなくても、
何か自分の欠点を補充してくれそうな人を
目がけて恋をするものかもしれない。

そしてそれはたいがい内心、
弱っているときなのだ。

だから恋をせずにすんでいるときは、
「良い異性に会っていないとき」
だけではなく、
「自分が自分だけでパンパンになって
いるとき」だったりする。

とはいえそんな正反対な二人が恋に落ちて、
つきあったりいつか結婚したりしても、
私に彼の上品さがうつるわけでもなく、
彼が冷蔵庫を足で閉めるような豪快な?
人になるでもなく、お互い自分の道を 
突っ走ってどこまでも平行線のところが
人生ってなんじゃいな、と思う。

誰かを求めるときは「外」のことを考えず、
自分の精神の「内」を探ってみるのもポイントかもしれない。















by meruchiko | 2012-01-14 00:00 | 恋愛 | Comments(0)