人気ブログランキング |

2010年 03月 27日 ( 1 )

父の思い出

今日3月27日は亡き父の誕生日である。

父は35才のときに亡くなった。
ちょうど今の私の年だ。まさに早死にである。

しかしすでに私を筆頭に3人の子どもがいた。
十分偉業を果たしたのかもしれない。

父は酒が大好きな人だった。
(しっかり受け継いでおります。)

仕事から帰って毎晩、晩酌を欠かさなかった。

父だけ違う酒の充ての食べ物
(まったくたいしたものではなかったが)が出てきて、
まずビールを飲み、あとは日本酒を飲んでいた。

私は近所の酒屋さんによく「白鶴」の五合瓶をおつかいに行かされた。

「はくつるの、ごんごうびんください」
と発音していたのを覚えている。

今思うと父は思っきり亭主関白だった。
母は友達と喫茶店に行くことも禁じられていたのである。

理由は「女同士ぺちゃくちゃとみっともないから」らしい。
もしかして母はこっそり行ってたのかもしれないが、
私には理解不可能だった。
喫茶店くらいいいじゃん!と思っていた。

父は私達にも行儀については厳しかった。
食事中はテレビを見てはいけない、
正座で食べろ(当時ダイニングテーブルではない)
テーブルにヒジをついてはいけない、とにかくうるさかった。

言うことをきかないと物差しでバチッと手を叩かれた。
これがまた痛い。

母とケンカもしょちゅうで、茶碗を投げたりしていた。
ケンカになると子どもは皆母の味方になり、
悲しくてわぁわぁ泣いていた。

厳しかったけど、父はまた思っきり子煩悩だった。

日曜日は毎週のように子どもを遊びに連れていった。
必殺・大阪城公園。必殺・生駒に山登り。

なにしろ貧乏だったので金もかからず近場でもってこいだ。

父は時々突拍子もないところがあって私たちを驚かせた。
やんちゃくれ坊主がそのまま大人になったような人だった。

「ナマハゲごっこ」が父は大好きだった。

突然四つん這いになって「ナマハゲじゃぁ~!」
と怖い顔をしながら子どもを追いかけて
泣かせるのが父の好きなあそびだった。
ナマハゲの上に乗った者だけが恐怖から逃れられるのだ。

大阪城公園ではよく堀に飛び込む真似をした。
やめて~!!死ぬ~!!と子ども達は泣いた。
面白がって、何度もそれをするのだった。

あるときは噴水に本当に飛び込んで私達を呆然とさせた。
泳いでちゃんと戻ってきた。

私達は心から泣いていたが、
びしょ濡れになって笑う父を見てやっと笑った。

私たちは5人家族でとにかく貧乏だった。
狭いながらも楽しい我が家~、の見本みたいな家族だった。

車は青のマツダ・ポーターキャブ。(軽トラですな。)
これに家族全員乗って、西成の親戚の家に行ったりした。

父と母と小さい妹(ナリ)は前座席に。
私と弟は荷台に寝かせられ、
警察に捕まったらヤバイから、と毛布をかけられた。

「警察通ったら動いたらあかんで!」と言われ、
当時は周りも貧乏が多かったので
さほど気にしていなかったが、
この時ばかりは冬の夜は本気で寒くて情けなく、

(もう貧乏は嫌だ!絶対金持ちと結婚する!!)
と、毛布に包まり震えながら軽トラの荷台で私は誓ったのであった。

父は若いころボクシングをやっていたので、
弟にサンドバッグを与えた。
グローブをはめて、弟はよくボクシングの真似ごとをして遊んでいた。

私はサンドバッグにつかまって、
ぐるぐる回してもらって遊んだ。

父はビートルズと千昌夫が好きで、よくレコードを聴いていた。
変な組み合わせだ、と私は思っていた。

父は仰向けに寝転んで、よく指で空中に文字を書いていた。
(癖だったようだ。)
「何を書いてんのん」ときいても、笑っておしえてくれなかった。

ある時、私が「チビ~、チビ~」と男子にからかわれて泣いて帰ってきたら、
「泣くな。山椒は小粒でピリリと辛い、じゃ」と父は言った。

父も170センチあるかないかのチビだった。
山椒も口にしたことがなかったし、
その時意味はよくわからなかったけど、
この一言が父が私にくれた唯一の格言である。

もし今も父が生きていたら、
いったいどんなオッサンになっていただろうと、
時々思う。
千昌夫を聴きながら、指でいつも空中に何かを書いていた父。

私もいつか死んだら、ぜひあの世で父と一緒に酒を飲みたい。
お父さん悪いけど私、結構酒強いで。いい勝負しまっせ。


e0185530_17261011.jpg


























by meruchiko | 2010-03-27 00:00 | 家族 | Comments(0)